ウェルカムレーニン、グッバイゴルビー

こんばんは。おはようございます。

 

真っ赤です、見ての通りです。

あと何時間後かに迫りくる、ソ連史の発表のせいです。

レーニンからゴルバチョフまでの通史的な新書を、

A4裏表1枚にまとめられる脳みそが欲しかった。

 

調布に引っ越してきて、もうすぐ二か月。

毎日自転車に乗って、本を読んで、

たまに新宿に出かけて(新宿だけじゃないけれど)、

早朝の歌舞伎町を歩いてホストの客引きを受けた時は

思わず感動しました。

 

一か月くらい前、

「私は高校生から大学生になって、卒業して、サルから人間になった。

大学院を卒業するころには、同じことを言っているだろう」

と偉そうに未来を予測しました。

大学院に入って一か月ですが、

どう考えても、私は人間じゃなくて、多少毛の生えたサルだと気づきました。

 

発表の準備が終わっていないのに、こんなところに何か書いてるのも

サルである所以でしょう。

多少毛の生えたサルから、群れの中でボスザルの横で偉そうにしてるサルまで進化出来たら、

またなんか書きます。

 

おやすみなさい。

あと、家に帰ったら、大きなアリさんがいたんですけど、

仲間を呼び寄せやしないかと、サルは震えています。

誰かいい方法を教えてください。

 

ロックンロール多摩川

 

 

こんにちは。お元気ですか?

 

この度、大学を卒業しました。

そして、大学院に入学しました。

 

大学を振り返ると、きっとチェコのことしか言わないから、

少しだけ、ほんの少しだけ、思い返してみることにします。

 

高校3年生の時、ぼんやりと「私が行きたいのは関学じゃない」と思い、

でも、中高大10年一貫教育の学校だったので、大学受験は叶わず。

(叶わずというか、関学じゃ嫌だと駄々をこねながら、受験について調べる努力すらしなかった。)

 

関学の総合政策を卒業したけれど、

関学はどこか自分の居場所のような感じがしなくて、

楽しかったけど、卒業の日まで結局あんまりなじめなくて、

思い返してみれば、馴染もうともしなかったなぁ。

綺麗な校舎は大好きでした。

 

ただ、3年生の時に鎌田ゼミに入って真剣に思想書に向き合ったのは、

今でも自分の財産です。

本当に悪態ばっかりついて、カントの『純粋理性批判』を読破した時は壁に向かって投げつけたし、

カント読んでる間に体重も減ったけど、

真剣に思想書を読む機会を貰えたことは、本当に嬉しかったし、今でも自分の中に生きています。

 

高校生の時の自分と、大学を卒業した自分を比べてみると、

「一匹のサル」から「人間」になれたような気がします。

主にチェコで、本当にいろんな人に出会って、

何度も無知であることを恥じて、出会った人に色んなことを教えてもらって、

その人たちのおかげで、「サル」から「人間」になれた気がします。

きっと、二年後、大学院を卒業する時にも、今と同じことを言ってると思う。

 

無知と無思考は罪だと思いながら、

これからも生きていくのだと思います。

思考しなければ、それはもう、人間じゃないんだと思う。

思考することがどれほど苦しくても。

これを若さだと、過剰な自意識だと笑われても、そうだっていいんです。

 

今は多摩川の近くに住んでいます。

歯が一本のお兄さんにナンパされる、ロックンロール多摩川

いつでも遊びに来てください。

またどこかでお会いしましょう。

夏と少女と春

 

こんばんは。

 

「未来の子どものために」

というスローガンについて、プラハ滞在中に考える機会があった。

 

私自身、あまり可愛げのない捻くれた人間であるので、普段

「未来の子どものため」

なんて聞くと

「自分の人生に手一杯なのに、なぜ産まれるか分からない子どものために生きなければならないのか」

なんて思ってしまう。

 

ただ、ある女の子との会話がキッカケで、そんなスローガンも悪くないなと思った日があった。

 

 

プラハの夏は賑やかだ。

観光客はチェコ人の3倍(推定)くらいいるし、どこかで何かが毎日起こる。

お祭り騒ぎだったり、喧嘩騒動だったり、とにかく賑やかだ。

ただ、賑やかさのなかに、どこか影があったりもする。

 

夏も終わりに近い8/20。

1968年のこの日、当時チェコスロバキアが推し進めていたプラハの春に反対し、ワルシャワ条約機構軍が予告なしにチェコスロバキアに侵攻、プラハを武力制圧する事件が起こった。

街中では、その事件を偲ぶパネル展示や小さなコンサートが開かれていた。

 

私の参加していたサマースクールでも、当時の政治情勢や、市民の生活、大学の様子などを取り扱った講義が何度か開講された。

 

その一環で、プラハの春と武力制圧についてのドキュメンタリー映画を鑑賞する機会があった。

圧倒的武力の前に、なす術もない市民たちや、道に倒れこんで動かない人の姿も映っていた。

何度もインタビュー映像が用いられ、いかに侵攻が理不尽であったか、どれくらい悔しかったか、当時その場にいた人たちが涙ながらに状況を振り返っていた。

 

共産党政権下のチェコについてのドキュメンタリーを見るのはこれが初めてではない。

毎回そういった類いの作品を観るたびに感じるのは、

「悪者ロシアと被害者チェコ

という絵面だった。

 

ワルシャワ条約機構軍の中で当時最も権力を有していたのはソヴィエトであるし、そんな大国が他国を率いてチェコにやって来た、という印象は避けられない。

そんな大国が小さな国に来て、武力制圧を行い、その後何十年も影響を及ぼしたのだから、「悪者対被害者」の絵面はどうしてもしっくり来てしまう。

 

ただ、私がずっと気になっていたのは

「今この場にいるロシア人は、どう感じるのか」

ということであった。

 

チェコに移住するロシア人は少なくない。むしろ、移民の中ではマジョリティである。

教室にはほぼ必ずロシア系の生徒がいるし、その日、ドキュメンタリー映画を観た時も例外ではなかった。

私の友人のロシア人の女の子が、教室にいたのだ。

 

 

映画は決して楽しいものではなかった。むしろ、当時の占領下の生活や人の気持ちを思うと、とても「重たい」映画だった。

鑑賞後、気分転換にふらっと外に出てみると、ロシア人の少女が外にいてタバコを吸っていた。

 

この子はどんなことを思いながら、映画を観ていたんだろう、という考えがふと頭をよぎる。

ただ、どう聞いて良いかも分からず、何と声を掛けていいかためらいながら

「元気?(how are you? are you alright?)」

と話しかけた。

 

少女はため息をつきながら、

「映画のせいで気分が落ち込んでいるの」

と答えた。

 

そして、

何も変える勇気のない自分に腹が立っている、自分の国はあの映画で観た通り最低な国なのに、何もできずにいる自分に腹が立つ、

と続けた。

 

「でもあなたはソヴィエトとは関係ないし、あなたが気にやむ必要はないと思うよ」

 

と咄嗟に答えると、

 

「そうね。私はソヴィエト崩壊後に産まれたし、何も関係ない人間だわ。

でもね、私の両親はプラハが占領された時にモスクワにいて、彼らも何もできなかった。私の国がやったことは取り返しがつかないし、私は自分の国をとても恥じているの。どんなに嫌でも私のパスポートはロシアのままで、変えられない。そして、どんなに嫌でも、結局何もできない自分が嫌なの。」

 

と、今にも泣きそうな顔で、ポツポツと自分の考えを話してくれた。

 

その女の子は私より年下だが、とても賢くて、実年齢より大人びて見える、普通の優しい子だった。

個人的にその子が好きだったし、自分の友人が、その子と何も関係ないことで罪悪感を覚え、泣きそうになっているその状況が、私にはショックだった。

 

なぜ、この子がこんな思いをしないといけないんだろう。

全く何もしていないこの子が、なぜ、泣きそうにならなければいけないのか。

 

 

その時、

過去の人間がやったことは、その子どもが背負わないといけないんだ、

と、ふと思った。

 

歴史を学び、忘れないようにする必要は絶対にある。

ただ、その歴史によっては、自分たちの先祖がやったことに驚き、傷つくこともあるのだ。

 

傷つくことも時には大切だけれど、

今の自分たちの行動が、無闇にこれから産まれてくる子どもを傷つけないよう、自分たちのせいで、その子が出自を恥じないよう、

「未来の子どものため」

という考え方が必要なんじゃないだろうか。

 

 

重くてベタベタの文章でとっても反省しているけれど、今回はこのへんで。

 

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P.S.夏のチェコは賑やかで、仄暗いけど、美しいです。